Episode01,
私はこの館にお仕えしている、執事でございます。
名前はなく、皆は「執事J」と呼びます。私の名前は古(いにしえ)の記憶の中に失せ、今も愛するご主人様を待ち侘びているのです。
今日もこの館に迷い子がひとり……。ふふふ。ようこそ、宜しければ、一緒によく熟れた無花果の紅茶でもいかがでしょうか?
但し、お気をつけて。鐘の音が鳴り響く頃には、お帰りあそばされませんと、もう二度と、ここから出られなくなってしまうかもしれませんよ?
さあ、今宵、美しき物語を奏でるのはあなた様……。

「愛する主人を探して……」 作・神崎シオン
一人、また一人と、姿を消していく。
暇つぶしは、時に残酷に、冷酷に行われる。
仄暗い洋館の一室を、シャンデリアの薄明かりが照らす。月明かりが仄かにステンドグラス越しに射し込んで、執事の足元を七色に照らし出している。
彼はこの月明かりが美しい時間が、好きであった。しかし夜は突如として孤独が襲い来る。誰か……ああ、誰でもいいから側にいてほしい。彼の孤独は、日に日にその身を蝕んでいく。
執事であることの誇りを胸に、今もまだ、この地で、愛おしいあのお方を待ち詫び続けて
いる──
執事は、書物を閉じて顔を上げた。
洋館の中は広くて暗い。階下へ続く、長い階段を見下ろして執事は溜息をついた。今日も、待ち人来たらず、か。物憂げな表情で、閉ざされた門扉を見つめる。やがて、ギギギ、と、軋んだ低い音を立てて、重く閉ざされた扉が開いた。
執事の視線の先で、開かれた扉から、一人の恐ろしい姿をした大男が現れた。執事はつかの間、わずかに両目をまばたきしてみせるも、さして驚いた様子は見せない。
男が、一段、また一段、と階段を上ってくる。やがて二人は対峙した。
執事と男。
執事は、いつも給仕に仕える時の黒の燕尾服を纏っており、白いグローヴをきつく指先に装着し、カフの部分を軽く指で引いて締め上げる。
「立ち去れ、と、告げても、あなたさまは立ち去りませんよね?」
執事は確認のように、横流しの視線を呉れて、やにわに微笑んだ。
執事と男。
二人は、洋邸の暗闇の中で、静かに対峙していた。
柱時計が秒針を刻む音が、どこからともなく響き渡る。突如として、重々しい鐘の音が鳴り響き、約束の刻であることを告げた。
執事の目の前に佇んだ男は、上背があり、黒のロングコートで全身を深く覆い隠していた。黒のサングラスは漆黒を映している。男がどこを見ているのか、一見分からない。しかし、執事には分かっていた。生温い風が吹き抜けて、二人の頭上のシャンデリアを揺らした。黄金の天使が四人それぞれ、東西南北を向いて、スズランの白灯を灯している。聖なる御殿に、恐ろしい影が一人──男である。二人の間には、どこまでも暗澹とした暗闇がぽっかりと口を開けて横たわっていた。
「俺様の姿が見えるのか?」
男は地を這うような低い声で尋ねた。執事はそっと、白いグローヴで、風に揺れる前髪を掻き上げる。
男は、背中を丸めつつ、眼光だけは鋭く執事を射抜いている。漆黒のサングラス越しでも分かる。あまりにも獰猛な威圧感と殺気が立っている。
執事は、改めて、ティーカップの中に、黒い液体を注いだ。緊迫した眼前の状況など露知らずと言わんばかりに、優雅に、豊かで芳醇な渋い薫りを漂わせた。
「今宵、美しいティーパーティへようこそ、まあ、そう焦らずとも、まずは珈琲でもいかがですか?」
執事が、指先を打ち鳴らすと、男の眼前に、大理石の天板の、黄金の円卓が現れた。円卓とセットの猫足のベルベッドチェアは、執事お気に入りの、二百年モノである。入念に手入れされたこれらのティーパーティーセットに囲まれて、男は今度こそ狼狽した。
さて、執事が手にした書物の内容には、こう書かれている。
〈何人(なんびと)たりとも、この書物の謎を解き明かすことはできぬ〉。
書物の謎だと? 実に興味をそそられるではないか。執事は形のよい顎先に指を添えて、深く明察を行なった。書物の文字は、古代ケルト文字で、時折歪な曲線を描いたかと思えば、美しくしなやかな円形を描いてそこで止まる。確かに、誰にも読めはしない。独特の封建的な物言いが、このように歴史ある書物の読解を難解なものとしている。
書物の文字の羅列は、やがて美しい旋律を伴って耳朶の奥をくすぐった。
「されど、読めぬものは読めぬ……」
男は、珈琲カップに一度だけ口を付けると、深く嘆息し、忌々しげに執事を見上げた。
「貴様に、その書物は読めぬ……!」
「いえ、読めますよ」
男の戯言に、執事はにっこりと微笑んだ。
「なにぃ……!」
憎悪と威圧を込めた男の唸り声が暗闇に響く。月明かりがやがて男の面(おもて)を照らした。顔の皮膚の一部がただれていた。かわいそうに、と執事は思った。しかし、所々が破れて朽ちた彼の黒いロングコートはどこか、黒ずんだ革の背表紙の古文書を彷彿とさせる。
されど、読めぬものは読めぬ。男はここで瞑目し、頭を抱えて首を振った。
「俺には、読めぬ……! もう、誰もが興味を喪った古(いにしえ)の書物を、もう誰も読めないのだ……! それは、俺にも読めぬ!」
男はやがて悶え苦しみ始め、頭を抱えて、顎(おとがい)を左右に振った。
執事は、それを静かに微笑んで見下ろしている。
「死にたくない……消えたくない……ッ!」
「私があなたを看取ってあげますよ」
執事は、腕に下げた美しい黄金の絹(シルク)の布をそっと、形の良いグローヴを嵌め込んだ指先で正した。ティータイムは間も無く終焉へと。男の前に捧げられた、熱く白い湯気を立ち上らせるティーカップの中は、どす黒い色をした液体で充たされていた。
「さあ、あなたの人生を召し上がれ」
「ぐぅォオオぉおッッ!」
男はティーカップに、歪な形の指先を伸ばし、途端に絶叫を上げて苦しんだ。
悲しき男の、悲哀なる絶叫であった。
「私には、読めますよ。確かに現代の方たちには読めません。彼らには彼らの文明があり、文字も姿も、書物や書架の形も時代と共に変遷し、うつろうものです。しかし、なぜでしょう。書物を読めば読むほど、私の胸の中に広がっていくこの旋律は、あまりに美しく、悲しい。まるで、人々に読まれなくなった悲しみと憎悪を覚えたあなた自身のメロディですね。ああ、この感情……! 私には理解できますよ! されど、いったいどう言葉で表現すればよいのか分かりません……!」
執事には、男の物語が、旋律に聞こえていた。言葉の意味を失った古代文字は、今や、音となって、強く訴え掛ける。読まれない書物は、誰にも認知されない。それは死と同じだ。悲しき哀歌。
「あなたを、読みましたよ」
「ああ……」
途端に、男の体は、脆く崩れ去っていく。珈琲の香りと共に。
執事は一冊の書物を閉じると、哀愁の微笑みを、眼差しを、男がいた場所にそっと向けた。
「これでよろしいでしょうか、お嬢様?」
「ええ。うふふっ。楽しませてもらったわ、『J』、でも、あなたはつまらない執事ね」
恍惚とした少女の睦言に、執事は双眸を見開いて、わざとらしく驚いてみせた。
「あらまあ。なぜゆえ、そのようなお言葉を?」
少女は、美しい金髪のハールー・ベアルー。豪奢なドレスを纏って、彼女は薔薇の髪留めで美しくまとめ上げた黄金の長髪を流麗に指先で掬い上げ、優雅に微笑んだ。そして少女は、とても退屈そうにあくびをした。彼女の碧眼が、まっすぐにこちらを見つめている。
「もうっ。これじゃあ、ただの、残酷な見せものじゃないっ! わたくしは、そのようにじゃなくって、もっと華麗で美しい、千夜一夜物語のような妖艶な物語を欲しているのですわ……! あれほど醜い男が、呪われた宿命に喰われていく残忍な物語など、興味ないですわ!」
少女が扇子で勢いよく指差した先で、またも執事が妖しく微笑んだ。
「もっと美しい人生〈ものがたり〉を頂戴。執事J」
「かしこまりました、お嬢様」
執事は恭しく傅(かしず)く。
「仰せのままに……私めは、あなたさまのお望みを永遠にお聞きしましょう」
執事はここで、言葉を止め、再び続ける。
「ただし、あなたさまが、私めの、愛し求める我が主様(あるじさま)であることが証明できれば……ですが」
「ふんっ。いいわ! 私が主よ! さあ執事、私の言うことをお聞きなさいっ!」
執事は、少女の足元に、恭しく跪いた。
「では、私めに、あなたさまが、我が主であるという事を、どうかお示しください」
執事の声は凛と、しかし、どこか哀愁を伴って、月光照らす洋邸の中に響き渡った。彼の声は、魂は、永遠(とわ)に喪われた主(あるじ)を求めて彷徨い続けている。
厳かな鐘の音が響き渡る。全部で十二回。深夜零時を報せる時の音だ。次の瞬間だった。
「ああ、なぜなの……」
「やはり、あなたさまは、我が主(あるじ)ではありませんね」
少女が震えながら「瓦解」していく。
足先に嵌め込んだヒールの先から、ガラスが砕けていくように、細かい音を立てて、小刻みに崩壊していく。
「残念です」
執事はさも残念そうに告げた。正直にそう思ったからだ。
「あ、あ、あ、あなたは何者なの……?」
少女の断末魔が、最後に美しい旋律となって響き渡った。
「私は、この館の執事でございます」
執事は告げた。
少女が砕け散って、やがて、本来の姿に戻った時、執事は、少女を抱き抱えて、再び目を伏せた。目の前に倒れ伏した、『二冊の書物』──それが彼女たちの本当の姿だ。執事は二冊の古い、革の背表紙が朽ちた書物を拾い上げ、大事そうに抱えて、再び暗闇の中へ歩き出す。
館の中は、あまりに広く、執事には少しだけ寂しく感じられた。
「さあ、次は、どんな物語を読みましょうかね」
全ては愛する主が戻るまでの、暇つぶしに過ぎない。
主人が生きていた頃から使用している、愛するものの遺品である年代物のティーカップに執事はそっと口付けをした。
唇に含んだ瞬間から仄かにほろ苦くも甘ったるい香りが広がってゆく。
それこそ、彼の人生の味だ。

物語の紡ぎ手
文・作家(小説家)神崎シオン……お仕事の依頼はこちらから♪ sun.verse.birth@gmail.com
新潟県出身。独特な世界観と摩訶不思議な語り口で読者を魅了。
特徴的などんでん返しの作風が持ち味。PHP研究所「ラストで君はまさか!と言う」、
ノベルアッププラス百合文芸コンテスト中間選考通過。
百合コミック誌ガレット「140文字の百合」に、漫画家やとさきはる先生の挿絵付きで
小説掲載。小学館にて五年担当編集者に就いて頂き執筆活動を行う。
これまでに三冊書籍化済。(別名義)
SNSが苦手なネット引きこもり。書き手より物語。黙って物書き。
出版社への執筆が中心。
田園調布アンティークス館(有限会社マリアンジュより)
物語とキャラクター、アイディアと著作権について
小説はプロの作家に依頼して執筆して頂いています
写真・文章ともに著作権で固く守られています。
スタジオとしてでなく、小説の読み物としての創作物となります。
固く著作権法で保護されており、安易にアイディアを模倣することは著作権侵害という罪になります。
盗用、模倣、無断転用は固くお断り申し上げると共に、
著作権を侵害する行為は、法的措置の対象となりますので絶対におやめください。
